世界への架け橋『中田英寿』

中田英寿

 今日のサッカー動画王は、日本をワールドカップに導き、世界との架け橋を作った男『中田英寿』だ。言うまでもない日本史上最高の選手として、初出場となるフランスワールドカップに始まり、計3回のワールドカップと2回のオリンピックで、日本全国に夢を魅せてくれた偉大な選手だ。

中田の才能は若い頃から知られており、U-17世界選手権、ワールドユース、オリンピックとステップアップを果たしていった。U-17ではナイジェリアのヌワンコ・カヌー等の驚異的な身体能力に対して『どうやっても勝てないと感じた』と言うが、アトランタオリンピックで数年の歳月を置いて再度マッチアップした際は、世界経験の少ない味方の日本人選手がその身体能力に驚愕している中、一人だけ『彼らはほとんど成長していない』と思い、自信を持って望んでいたという。
また、ワールドユースではスペインのラウール・ゴンザレスと熱戦を戦い、初めて日本をワールドユース決勝トーナメントに導く等、日本人の中で史上最高レベルの世界経験を若くして積んだ選手だった。

今でこそ世界中のサッカーリーグを衛星放送で楽しむことができ、世界大会に出場するのも当たり前になっているが、中田以前は出場することすらできず、出場できない者は経験すらできないという状況だったのである。そして、次々と世界の壁を超えて行く中田には、当然悲願のワールドカップ初出場の夢が託された。

1997年に行われたフランスワールドカップ予選では、最年少ながら瞬く間に迷走するチームの中心となり、仲間の信頼を勝ち取って行った。伝説になっているマレーシアはジョホールバルのイラン代表との決戦では、先制となるスルーパスで相手DFを打ち破ると、逆転された後に、起死回生のドライブパスを城彰二の頭にピンポイントで合わせチームを蘇らせた。あのアリ・ダエイマハダビキア擁するアジア最強の攻撃を誇るイラン相手に、誰よりもうまいのはこの俺だ!、日本の方がうまいんだ!、というプレーをこれでもかと見せつけ、相手どころか日本人サポーターまでを驚かせ、最後は相手キーパーの怪我を計算した上でのコースに強烈なシュートを蹴り込み、岡野のゴールデンゴールをアシストした。史上最も重要な激戦で、3アシストを決めた中田の活躍により、日本は夢のワールドカップへの舞台を遂に手にしたのである。

このワールドカップフィーバーにより、中田は日本のスーパースターとして誰もが知る存在となり、当時インターネット黎明期にも関わらず個人HPで情報発信をする等の先進的な言動により、熱狂的な人気を獲得していった。
その後、迎えたフランスワールドカップでは、残念ながら3戦全敗に終わったものの、そのプレーに目をつけたイタリアはペルージャに獲得され、カズに続く、日本人二人目(アジア人二人目)のセリエAジョカトーレ(プロサッカー選手)となった。
世界を驚かせたのは、そのデビュー戦。相手は世界の名将マルチェロ・リッピ(ドイツワールドカップ優勝監督)率いるユヴェントスチャンピオンズリーグファイナルの常連とも言える欧州最強クラブ相手に2部上がりの地方の弱小クラブが満足な試合をできるとは誰もが思っていなかった。そこで中田は世界の考え方を変えた。アジア人に対する評価を完全に変えてみせた。世界一モダンと言われたプレッシングフットボールを誇るユヴェントスの守備相手に、何と2ゴールを叩き込んだのである。あのユーヴェが点を取られただけで皆が驚くというのに、一人で2点も決めたのだ! それもアジア人が! ペルージャが! セリエA開幕戦の話題は中田で持ち切りだった。 無理もない、相手にはあのジネディーヌ・ジダンアレッサンドロ・デルピエロ等、世界最高の選手ばかりが揃っていたにも関わらず、最も華やかなプレーを魅せたのは日本人だったのである。

日本のサポータは狂喜乱舞した。カズですら1得点しか挙げられなかったイタリアで、まさかMFである中田が2得点も決めるとは夢にも思っていなかった。しかも、中田は日本でも1試合2得点など、ほとんど決めたことがなかったのである。
その後も中田の活躍は続いた。ラツィオフィオレンティーナACミラン、日本人にとっては夢の中のテレビの存在だったチームや選手から、我らが中田がゴールを決めていくのだ。『接触プレーはきらい』と言っていた細身の少年が、世界一守備の激しいイタリアで、なんと相手選手をはじき飛ばし、引きずりながらドリブルで突進していくのだ。中田は文字通りパイオニアだった。日本人のコンプレックスを解消し、日本を本当の意味で世界のサッカーへと誘ったのである。

さらに活躍を続ける中田に、今度はビッグクラブへの移籍のチャンスが巡って来た。イタリア指折りの攻撃力を誇りNo.1の人気チームと言われるASローマである。ここで中田はあまりに偉大なライバルと対峙する。その男の名はフランチェスコ・トッティバッジョの後を継ぎ、イタリアの10番として自他ともに認められていたローマの王子である。優勝請負人とも言われる監督ファビオ・カペッロは、トッティと中田を競わせ、互いのレベルアップを図った。レギュラーはトッティが守り通したが、肝心な試合でトッティの調子が良くない場合、カペッロは迷う事無く中田を交代選手として送り込んだ。そして、中田はその期待に答え、幾度も決定的な仕事をこなしてそのレベルの高さを改めて示していった。中でも、優勝が懸かったリーグ終盤のユヴェントス戦では、起死回生のキャノンシュートを叩き込み、2点差を追いつく原動力になり、大きく優勝に貢献した。日本人が主力としてセリエAスクデットを取る等、一体だれが想像しただろう? サッカー関係者であればあるほど、その偉業は信じられないものだった。ほんの数年前、セリエAは専門誌で知る夢のプレーヤー達のものだった。TVで見ることができる様になったのもごく最近だ。それが、日本人がそのリーグで優勝を果たしている。イタリアの10番とポジションを争い、バティストゥータモンテッラといった世界超一流ストライカーを操っている。本当に信じられない程の画期的な大記録であった。

その後,中田はパルマフィオレンティーナボローニャ等を渡り歩き、念願だったプレミアリーグでもプレーしている。しかし、中田のベストは、このセリエA優勝を果たした頃であったという声が大きい。あまりにもあまりにも眩しい程、輝いていた。

中田は代表でも2002年日韓ワールドカップと2006年ドイツワールドカップでチームを引っぱり、改めて日本最高の選手であること、日本で最もプロフェッショナルな選手であることを内外に示し続けた。戦う気持ちに欠ける味方を叱咤激励し、どうあるべきかを体を張って見せていった。岡田、トゥルシエジーコと3人の監督のいずれもが、中田にだけは絶対的な信頼を置いていたことからもその評価が伺える。中田自身が認めている様に、中村や小野等は単純なテクニックだけを見れば中田よりも豊かな才能に恵まれている。しかし、結局最もチームに必要なのは中田英寿だという事実は最初から最後まで結局変わることはなかった。自らが大事だと言い切る『走ること』を標榜するオシムが監督になるのと入れ違いに引退したのは、非常に残念でならない。オシムならば、中田の理想とする走るサッカーが実現できたのではないかと思うからだ。

日本サッカーのベストプレーヤーとして誰よりも厳しい環境で責任を持ってプレーし続けてきた偉大な選手。僕らに世界を教えてくれた中田英寿に、今はただありがとうと感謝の言葉を伝えたい。ヒデ、夢をありがとう。君こそが常に最高だった。

□『中田英寿』サッカー動画 超絶テクニック by YouTube


ペルージャで世界を驚愕させた中田のプレーを見て欲しい!


これが日本が世界に誇る中田英寿の超絶テクニックだ!


ヒデ引退に寄せられた各界のコメント


これが伝説の中田のキャノンシュートだ!ヨッシャア!

□『中田英寿』選手データ by Wikipedia


愛称 ヒデ
カタカナ ナカタ ヒデトシ
ラテン文字表記 NAKATA Hidetoshi
基本情報
国籍 日本
誕生日 1977年1月22日
出身地 山梨県甲府市
身長 175cm
体重 72kg
血液型 O型
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
代表歴
キャップ 77
得点/失点 11


所属チーム

* 1986年-1989年 - 北新サッカースポーツ少年団
* 1989年-1992年 - 甲府北中学校 サッカー部
* 1992年-1995年 - 山梨県立韮崎高等学校 サッカー部
* 1995年-1998年 - ベルマーレ平塚
* 1998年-2000年 - ACペルージャ
* 2000年-2001年 - ASローマ
* 2001年-2002年 - ACパルマ
* 2003年-2004年 - ボローニャ
* 2004年-2005年 - フィオレンティーナ
* 2005年-2006年 - ボルトン・ワンダラーズ


個人タイトル

* 1997年 Jリーグベスト11アワード
* 1997年 AFC Player of the year
* 1997年 内閣総理大臣賞/プロスポーツ
* 1998年 AFC Player of the Year
* 1998年 AFC All Star Team
* 1998年 セリエA 外国人選手MVP
* 1999年 AFC All Star Team
* 2004年 FIFA 100に選出
* 2006年 イタリア連帯の星勲章受章
* 2006年 カヴァリエーレ勲位(ナイト)

出場大会

* 1992年 U-16アジアユース
* 1993年 第72回高校選手権 (2回戦敗退)
* 1993年 U-17世界選手権 (ベスト8)
* 1994年 U-19アジアユース
* 1995年 ワールドユース (ベスト8)
* 1996年 アトランタオリンピック (グループリーグ敗退)
* 1998年 フランス ワールドカップ (グループリーグ敗退)
* 2000年 シドニーオリンピック (ベスト16)
* 2001年 コンフェデレーションズカップ (準優勝)
* 2002年 日韓ワールドカップ (ベスト16)
* 2003年 コンフェデレーションズカップ (グループリーグ敗退)
* 2005年 コンフェデレーションズカップ (グループリーグ敗退)
* 2006年 ドイツワールドカップ(グループリーグ敗退)

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